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馬国(この国)に10年以上住み、マレー系や中華系の人々と日々関わりながら、時に共感し、時に衝突しながら感じてきたことがある。この国の人々は、皆そろって人種の違いに対する差別的発言をしないよう、かなり神経を使っているように見える。
だが、長く暮らしていると徐々に気づいてくる。彼らの会話の端々には、民族間の深い亀裂や、相容れない価値観の違いのようなものが、ちらりと顔を出す。うまく言葉にできないが、それは生乾きの傷のようで、見て見ぬふりのできない、厄介な何かだと感じるようになる。
今日、FMT(Free Malaysia Today)のオンライン記事のひとつに、かつてマレーシアの判事だったという弁護士が投稿した文章が載っていた。これを読んで、長年なんとなく感じていた違和感の正体が、はっきりしてきた気がした。

彼の言葉を借りれば、「ここ(マレーシア)では、肌の色、名字、通っているモスクや寺が、政治の武器になり、社会のバリケードになり、人の価値を決める判決文のように扱われている。バカげているし、腹が立つし、正直、もううんざりだ。でも一番おかしいのは、これらすべてが、その人自身の責任じゃないということ。誰も親を選んで生まれてきたわけじゃないし、民族や信仰も選べない。それなのに、この国では、生まれと同時に背負わされたレッテルによって、その人の一生が決めつけられてしまうのだ。」
自分は今まで、マレーシアの人々は皆、自分の宗教や文化を自覚的に選び取り、多民族社会という“るつぼ”の中でうまくやっている、成熟した集団なのだとばかり思っていた。だが実際にはそう単純な話ではなく、この弁護士が言うように、彼らにとって生まれたときの文化とは「絶対に脱げない衣装」のようなものであり、それを捨て去ることができないという理不尽さに、内心で苦しんでいるのだという。
そう言われると、確かに気の毒な気もしてくる。
見えない傷は深い
彼は言う。
「マレーシアの人種と宗教をめぐる断層は、ちょっとした“ヒビ”なんかじゃない。巨大な“裂け目”だ。」
「人種と宗教へのこの執着は、あまりにも深く社会に染み込んでいて、もはや手がつけられないレベルになっている。」
「本来なら“橋”をかけるべき教育が、実際には“壁”を作ってしまっている。カリキュラムには“団結”や“共通の進歩”といった視点がなく、“隣人は敵だ”という前提のもとで教育が始まっているように見える。」

そして彼はこうも言っている。
「“人種スコア付け”って、本当にバカバカしい。でも、それが今も続いている。胸が痛む。マレーシアが好きだからこそ痛い。だけど、どうしても感じてしまう。この国は“人種という終わらないループ”に閉じ込められている。いつも同じ争いが繰り返されて、誰も勝てない。」
「正確に言えば、マレーシアは“人種差別が制度化され、常態化し、あまりに頻繁に使われすぎて、もはや誰もそれを疑問視しなくなった国”なのかもしれない。」
馬国の外の世界で見えること
彼はまた、海外に出ると違う価値観が見える、とも言う。完璧な国など存在しないが、それでも少なくとも、そこでは人種や宗教のステレオタイプではなく、“一人の人間”として見てもらえる可能性があると。
確かに、日本もそういう意味では比較的フラットな社会かもしれない。もちろん、日本にも根強い差別意識や排他的な文化はある。しかし、日本人である限り、“日本人”という単一のカテゴリーにまとめられており、名前の綴りや宗教などで区分されることは基本的にない。
だからこそ、履歴書に宗教を書く義務もなければ、住所を書くことで先祖の出自や階層が特定されることもない。
マレーシアの人々が日本に来て、日本人として生きていきたいと願うのは、彼らが背負わされてきた、どうにもならない人種のラベルを脱ぎ捨てたいと思っているからなのかもしれない。だからこそ彼らは、日本に来ると民族衣装ではなく、洋服や和洋折衷の暮らしの中に自分を溶け込ませたいと思うのだろう。
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