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いわゆる大手ゼネコンが手掛ける高層ビルや空港などの大規模施設と比べると、技術面で種別が異なるのが産業設備、または産業プラントだ。ゼネコンは一般の人々が多く出入りする場所の建設に強い。産業プラントの専門企業は一般人が近づかない設備を専門とする。
石油や天然ガスを処理する施設や化学薬品の工場、さらには廃棄物の焼却施設においては、排出基準であったり、地域の環境影響に関する条件が極端に厳しくなる。反対運動を展開するNGOの圧力も半端ではない。その規模も国際級だ。安全性に関する最先端の論争に耐えうるノウハウと実績のある企業だけが対応できる分野なのだ。
そして、この分野は、マレーシア国外のエンジニアリング会社や産業設備の知見を持った製造業が協力して施工している。受注する企業は、住民や国際級のNGOの抗議活動に対応するために政府を技術的にバックアップする役割も担っている。
狭い業界である。即戦力になる日本の技術者やプロジェクトの管理職も少数派だ。
時は2003年。クアラルンプール(KL)連邦特別区が切望する一般ゴミの焼却施設は、実績の豊富な日本の企業に落札される運びとなった。その施設の設計と建設費用は数百億円を超える規模となった。何しろ毎日1,500から2,000トンもの廃棄物を焼却処理する施設だ。最盛期には1,000人を超える労働者が雇用される大規模建設工事が計画されていた。
フリーランスの大躍進
当時の私は、個人事業者としては稀に見る幸運に恵まれていた。入札の準備段階から、知人の紹介で政府側コンサルのY社の事務サポートとして仕事をもらっていた私は、入札前後になって件の一般ゴミ焼却施設のプロジェクトを受注した企業連合からも下請け業務の仕事を受けることができた。
KL市内の産業系のフリーランスの仲間からは、羨ましがられたものだ。これほどの規模の政府系の仕事で日本の企業が主体となってプロジェクトを動かし、その下請け仕事をもらえることは日本から単身でKLに移り住んでフリーランスで自営業を始めた人間にとっては夢のような話だ。
政府側との契約にサインが入り、最低でも3年かかる設計と建設のプロジェクトが始まった。私はこのプロジェクトに自社からマレー人の日本語通訳兼秘書を2名、プロジェクトマネージャーのマレー人女性秘書1名、専属のインド人運転手1名、政府系建設工事の経験のあるマレー人技術者1名、大型プロジェクトの経験を持つマレー人事務職1名を派遣し、私自身もコンサル役として日本企業のプロジェクトチームに席を置かせてもらった。
好事魔多し(こうじまおおし)
日本でも準大手から大手企業の範囲に位置する3つの企業連合が受注したプロジェクトにあって、もとは企業人とは言え、ほとんど資本金も持たずに自転車操業で動いている40歳代のフリーランスが、運用実務の一部に入り込む形で組織的に関与するというのは、あまり例のない話だ。一般的なのは現地に住んでいるフリーランスが個人的に一人で直接雇用されるケースだ。
かくいう私も、企業に在籍していた頃、自分の配下に現地のフリーランス1名を雇ったことがある。それなりの貢献度で、手が足りなかった実務現場では重宝したものだ。しかし、こういうパッチワークは所詮仕事が終わればいつでも1か月程度の余裕で契約解除を宣告して解雇可能だ。労働組合にも関与しない。
しかし、如何に顔見知りとは言えフリーランスで入ってきた人間が、大型環境プロジェクトの管理職レベルに秘書兼通訳やマレー人のエンジニアを伴って入り込んでくるとなると、企業側の社員は少なからず疑念を持ち始める。本社には優秀な社員がたくさん在籍している。いくら安上がりだと言っても、本社で待機している現役社員でなく、社外の個人事業主に、誰でもできそうな仕事を取られているというのは嬉しい話ではない。
しかも、実務現場はマレーシアである。当時は、世界中の拠点を歴任した商社マンが最後の引退場所として選ぶのがマレーシアだと言われていた。この国に赴任して大型プロジェクトを経験したい中堅社員はいくらでもいたのだ。ゼネコンの世界では、クアラルンプール支店長として着任した人間は、通常の任期である3年が経過しても、けして日本の本社には帰りたがらない。必ずと言って良いほど、任期の延長を申し入れる。
ゴミ焼却案件の落札企業である私の雇い主のプロジェクトチームがKLで業務を初めてから1年がすぎると、企業の本社から現地のフリーランスの日本人を解雇すべしとの司令が飛んできていた。私が担当していた仕事に関する必要な情報は、過去1年で十分入手できたから、そろそろフリーの現地スタッフは解雇して、本社の中堅社員に引き継がせようという計画だった。ある意味では正しい判断だ。
企業の裏切りと社員の恩義
「どういうことなんですか?今後3年は仕事があるというから、他の仕事全部断って支援してきたのに!」
私のプロジェクト勤務を停止するという現地責任者の宣告は唐突だった。私が人選して派遣したマレー人スタッフは企業側が直接契約するので、プロジェクトを出ていくのは日本人の私ひとりだという話だった。
それもそのはずである。マレーシアの政府系プロジェクトでは、あらゆる業務において、可能な限りマレーシア人(マレー人とは限らない)を雇用することは最も重要な契約条件のひとつだった。現地通訳、事務員や運転手は、日本人でなくともこなせる仕事だから、既に着任していた私の会社からの派遣員にはマレーシア国民としての既得権があった。
企業側の副部長のアレンジで、マレー人スタッフについてひとりずつの面談が始まった。その面談には私も同席することになった。つまり、マレー人スタッフの直接雇用について、私が同席して同意した事実を記録するためでもあったようだ。
私の契約解除は、通知された日から1ヶ月後とされた。1ヶ月の期間をおくことは常識的な措置であり、それを持って仕事はゼロになるのである。退職金や他の補償もなく、完全に無収入になるのだ。
通訳を含む秘書役3名、マレー人技術者1名、事務職1名との交渉が始まった。彼らとしても政府の肝入りの環境プロジェクトに何年も勤めることは、大きな実績になる。私は、彼(女)らには、自由に自分の将来を決めてほしいと伝えておいた。こんな好条件の仕事を彼らが失うことになれば、私自身の馬国の零細企業としての立場も危うくなる。
しかし、面談の結果は予想外だった。5名のマレー人社員は全員揃ってプロジェクトからの撤退をもうしでたのだ。
「私たちが所属する会社の社長が解雇されるなら、私たちはこのプロジェクトには残れません。私たちを雇用してくれたのは、この人なんです。あなたがた企業じゃない。」
この時、私は、自分が単なる日本人(外国人)ではなく、マレーシア国民の雇用を守るマレーシアの中小企業の経営者なのだと自覚した。
それから、1ヶ月、私は彼らの次の仕事を探すことに専念した。自分の会社のことは、もう二の次になっていた。私を信頼してついてきてくれた社員が路頭に迷うことは耐えられなかった。
起業と躍進の顛末
かくして私は、件の環境プロジェクトから社員共々完全に撤退することとなった。
退職した社員は、それぞれ、日系自動車会社、現地の大手建設会社、現地の設計会社、そして個人の自営業へとそれぞれ転職していった。彼らへのせめてもの謝罪のつもりで、1ヶ月分の給与を退職金として払わせてもらった。不満を訴える社員は一人もいなかった。今でも彼(女)らには深く感謝している。
私の会社は、ほぼ倒産状態となっていた。負債は約30万リンギットであり、当時の換算レートで900万円程度となった。この程度で済んだのは不幸中の幸いということだろう。なんとかなる数字だとは思っていたが、それまでに使い果たした幸運を思うと、この先にある会社の再建については何ら希望の持てる景色は見えていなかった。
KL市の環境プロジェクトに会社の命運の全てをかけてしまった私は、営業機会を失った瞬間から、再び振り出しに戻ることとなった。いや、「ふりだし」ならまだ良い。900万円の負債という「くたびれ儲け」まで残った。
「過ぎたるは及ばざるが如し」という格言がある。何事においても「やりすぎ」は禁物なのだ。
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つづく