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起業から2年半が経過した2002年頃
一念発起して起業した私は、相変わらず「鳴かず飛ばず」だった。
月に1〜2度の通訳・翻訳の仕事、退職前に所属していた企業の現地法人でのアルバイト、そして日本企業に欧米人を派遣する人財派遣の仕事(いずれも当時の馬国では特別なライセンスは不要)、あるいは、いつ果てるとも知れぬ、日本企業や知人の国際空港での出迎えと、クアラルンプール市内のご案内に明け暮れていた。
数年前まで関係していた大型建設プロジェクトの関係で、不要になった設備の売却を手伝う機会があったり、高価な日本の特殊バルブの輸入に関わったりして、なんとか生活費と長男の学費を稼いではいたが、この個人事業が大きく成長する糸口がつかめない毎日だった。
それでも、遂に自分にもチャンスが回って来た。大きな仕事の兆しが目の前に浮上してきたのだ。そして、このチャンスこそは、当時の私にとって「地獄に降りて来た一本の蜘蛛の糸」のような話だった。
連邦特別区の環境プロジェクト
当時、クアラルンプール(KL)特別区の一般ゴミの排出量は、ひとり1日あたり0.7kg から 1.0 kg に達していた。これは1日あたり特別区全体から毎日1000トンの一般ゴミが排出されている計算になる。(数字は2002年頃のものであり、20年後の2020年には、毎日2000トン以上の排出量、一人あたり2kg/day に増加している)
このうち3割がいわゆる家庭ゴミ(残飯等)、2割がプラスチックであり、残る5割には紙ごみや、家庭から排出される汚物・危険物の類である。乳児を育てるためのおむつ類が全体の8%にもなるのは、人口が増え続けている馬国の特徴でもあった。2002年当時、DBKL(KL市庁)は、この一般ゴミを郊外に運んで埋め立てていたのだ。
埋め立て地といっても、地中深くまで穴を掘り込む予算はないから、比較的広い敷地にゴミをうず高く積み上げているようなものだった。埋立地の近隣の住民はたまったものではない、臭気や滲み出る汚水は想像を絶するものだった。
KL市は馬国政府に解決を迫った結果、KL郊外に大型のごみ焼却施設を建てることになった。大型環境プロジェクトが計画されたのである。
これを受けて、公害にならないきちんとした環境プロジェクトをまとめることができるのは「日本の企業だ」という政府の判断が下ったのだ。当時の日本は「ゴミ焼却王国」として世界トップクラスの技術を持っていた。
ごみ処理施設の建設場所は遠隔でない KL郊外のどこかであり、候補となっていた日本企業の中には、マレーシアでの事業経験が比較的少ない企業も含まれていた。
この仕事を受注した日本企業の下請けに入れば、少なくとも3年、長ければ6年の間の個人事業の需要が確定する。
資金や計画の不備を抱えながら開業して2年半。資源エネルギー系の大規模プロジェクトの5か年計画が終了した時期である。これ以上『身が持たないだろう』と思い始めた矢先に、この「環境系」のプロジェクト需要が出たのだ。
顧客は馬国政府の「住宅省」であり、予算は政府予算として確保されている。信頼性の低い私企業の「なんちゃって」プロジェクトとは格が違う。
私は、「遂に事業拡大のチャンスが来た」と直感した。産業プロジェクトについて知見のある私の個人事業を大きくできる絶好のチャンスだった。
環境コンサルの支援
政府系大型プロジェクトの取引というのは、一般消費者向けの物品・設備の取引のように簡単ではない。買い手である政府は、先ずプロジェクト契約を専門に扱うコンサル会社と契約する。コンサル会社は、高層ビル・インフラ設備・高速道路・鉄道・環境設備・病院等々、対象となる施設により専門が分かれているが、今回はゴミ焼却を得意とする日本のコンサルがノミネートされていた。
石油や天然ガスのような資源エネルギー系のプロジェクトであれば、石油の元売り会社であるペトロナスあたりが、外国の欧米の石油ガス開発に詳しいコンサルタントを使うし、道路などのインフラならその筋のコンサルが海外にも日本にも存在する。
2003年当時のマレーシアには環境汚染にならないゴミ焼却施設を計画できる企業や組織はまだ育っていなかった。
この時のKL市のごみ処理施設の準備には日本の「Y社」(仮名)が政府から指名されて十数名の体制で準備を進めていた。
そして、KL市内に合法的に登記している日本人事業者で大手企業グループにも属しておらず、大型プロジェクトの経験があって、フリーランスですぐ動けるような人間はおそらく筆者を入れて2〜3名程度だったと記憶している。最も若いのが筆者だった。他は製造業やサービス業出身であり、この手の事業には慣れていない。
私はある人の縁で、そのY社のオフィスに出入りできるようになった。そして売り込み対象である環境プロジェクトの情報を参照できるようになった。
人間関係やコネクションの詳細はここでは割愛するが、コネをつけること自体はそれほど難しい仕事ではなかった。前述の空港への出迎えから始まって日本人出張者の衣食住のサポートをしている中で自然に積み上げて来た人間関係である。2年間もKL近郊で「脱サラ」したもと企業人がうろついているという情報は十分出回っていたのだ。
政府が計画した廃棄物処理施設のプロジェクト全体はほぼ3つの日本企業グループと一つの外国の企業1社に引き合い書類が出ることになった。引き合いが始まると、ノミネートされた企業は新聞にも掲載されるが、私は企業名だけでなく、個々の企業のコンタクト先も手にしていた。
もとよりY社にいる技術者や管理職の面々は、私が、後日このプロジェクトの下請けとして働く下請け会社になるとは思っていないから、情報開示にもあまり抵抗がなかったのだ。
当時の私の仕事
- 客先である日本企業の社員の衣食住サポート(主に情報提供・案内など)
- マレーシアの大型プロジェクトの遂行方法について助言・意見
- KL市内や郊外の施設などのアクセスに関する案内役、時には自分で運転
- KL市に関する情報収集と書類の作成・整理
- 馬国ないの有識者との意思疎通、事業説明など
- 一般の店舗で入手しにくい事務用品や書籍などの調達
個人事務所を拡大
応札する企業へ技術書類が送付され、各社が入札準備を始めるころには、私は、政府直轄のコンサルであるY社の技術者に混ざって、大規模プロジェクトの運営実務をこなす現地の日本人スタッフになっていた。請求先は日本のY社だから支払いの心配は皆無だった。
マレーシアの顧客層に絶望していた私から見れば、これは夢のような仕事だった。
コンサルであるY社の仕事内容は、極秘であるが、主に技術的な要件と、契約条件などの詳細を準備することである。大規模な事業なので、法的制約や、さまざまな要件、山積する作業により、Y社の担当者は出張先のKLでの日々の生活であたふたしながら対応に追われていた。私のような半分現地人のような日本人スタッフは便利だったのだ。
他にも仕事があった私は、この大口プロジェクトの需要に対応すべく、まず、マレー人の若いアカウンタントをひとり雇い、それからドライバーや通訳などをこなすマレーシア人をぽつぽつと雇い始めた。彼らは日系の人財派遣会社や、古い知り合いの紹介だったが、皆よく働いたし優秀だった。特にアカウンタントを採用したことで、私自身が本業に専心できる時間が拡大した。
企業に所属していた当時から懇意にしていた建設工事の道具類を扱う小さな商社が、私の会社のためにオフィスを貸してくれた。場所はその商社が経営する商店の2階で、ウナギの寝床のような場所だったが、関係者4〜5人が十分執務できたし、何より、家賃はほとんど無償だった。
「しがない一人事務所( one man show ) はおさらばだ!」
起業して2年以上の活動が身を結んだと実感した。内心は「歓喜」で溢れていたが、それよりも毎日が忙しくなり、生活も安定していった。。
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「好事魔多し」である。
またと無い幸運であった環境プロジェクトの仕事にありついた私は、もう少し大きな展開を迎えるが、その先にとんでもないトラブルに巻き込まれるのである。
つづく