冒頭の写真は1899年に発刊された“THE REAL MALAY, PEN PICTURES”の表紙のデザイン。(https://archive.org/の書籍紹介より)
今回より、新たなマレーシアの史実紹介として、19世紀後半の英領マラヤの行政に半生を捧げた英国植民地行政官、フランク・アセルスタン・スウェッテンナム(Sir Frank Athelstane Swettenham GCMG CH、1850年3月28日 – 1946年6月11日)の著作から後のマレーシア形成につながる19世紀末のマレー半島のあまり知られていない姿を深掘りする。
スウェッテンナムは1870年代にはすでに英国の文官としてマレー半島に赴任しており、前回までのパンコール条約締結や、その後に起きたジェームス・バーチ暗殺事件の時代を現地で経験しており、1896年からマレー連合州(Federated Malay States)の初代レジデント・ジェネラル(Resident-General、連邦駐在官長)を務め、セランゴール、ペラ、ヌグリ・スンビラン、パハン(Selangor、Perak、Negri Sembilan、Pahang)四州からなるマレー連合州の初代Resident-Generalとして、その連邦行政を担った人物である。
今回の連載の目的は、19世紀末、英国植民地行政の当事者が世界情勢の中でマレー半島をどう見ていたのかを読み解くことである。したがって「当時の英国目線」であることにご注意願いたい。
あまり知られていない彼の著書である “THE REAL MALAY, PEN PICTURES” (Carcosa, Malay Peninsula, May 1899.) は当時のマレー社会を描いた随筆・人物描写集であり、歴史資料としても興味深い著作であり、マレー半島のスルタン諸国や村落社会が、英国の介入によってどのように変化していったのか、そこに深く関与した英国が何を意図し、マレー諸州への介入をどのように正当化していたのかを、当事者自身の視点から率直に記録しており、このブログの筆者も、これほどはっきりと英国・シンガポール・マレーシアの関係を記録した文章は他に見たことがない。そこで、著作のTHE REAL MALAYの解釈としてこの連載では表題を「マレーの真実」とした。
本日の紹介は、『THE REAL MALAY』の巻頭を飾る “A NEW METHOD” と題されたエッセイである。
大英帝国とマレー半島
すぐに翻訳文を紹介するが、話の前提として、この文章が書かれた1899年というのは、太平洋戦争はおろか、第一次世界大戦もまだ勃発していない時期の英国とアジアが背景にあることに留意願いたい。日本はまだ明治時代であり、急速な富国強兵を目指した日本が日清戦争(1894-1895)に勝利して、世界の列強から驚きを持って迎えられた時期の話である。
今まさに終わろうとしているこの世紀(訳註:19世紀末)に起きた数々の重大な出来事のなかで、おそらく最も注目すべきものは、中国が、幾世紀にもわたって固く守り続けてきた閉鎖的な立場から、外部の力によって引き出されたことであろう。
長年にわたり、最も聡明で事情に通じた英国人たちは、中華帝国が秘める可能性を認識してきた。彼らは、既知・未知を問わずあらゆる資源を擁するその広大な領土の価値を見定め、さらに、おそらくそれ以上に大きな価値を持つものとして、世界で最も勤勉で、しかも最も統治しやすい民族四億人が暮らすこの国において、優越的な影響力を確保することの意味を理解していたのである。
ほんの数年前であれば、中国との間に相互理解を築くことによって情勢を救い、いかなる西洋列強との同盟にも勝るほど大きな利益を英国にもたらすことができたかもしれない。
しかし、その機会は日清戦争とともに失われた。この戦争は、中国の弱さを世界にさらし、ロシアに介入の機会を与えた。そしてロシアは、その機会を逃さず利用したのである。
日本は勝利した。しかしロシアの働きかけによって、フランスとドイツはこの北方の大国に協力し、日本が勝利の結果として期待していた領土上の利益をすべて獲得することを阻止した。
その後、ドイツは膠州湾(Kiau Chau)を占領し、ロシアは旅順(Port Arthur)と大連湾(Talien Wan)を手中に収めた。これに対して英国は威海衛(Wei Hai Wei)を占領した。
それ以来、中国そのものは、いわば無視してよい存在(quantité négligeable)として扱われるようになった。一方、西洋諸国と極東の諸国は、「門戸開放(open door)」政策と「分割(partition)」政策とを対峙させ、それぞれの競合する要求を押し進め、あるいは現実の、もしくは想像上の利益を守ろうとして、武力衝突の一歩手前にまで至ったのである。
さらに最近では、スペインとアメリカの戦争〔米西戦争〕によって、英国民のみならず諸外国も、石炭補給基地、船舶修理のためのドック設備、そして物資補給基地の重要性を強く認識するようになった。そして、この点において英国が世界各地できわめて特別な優位を有していることは明らかである。
地中海についてはひとまず措くとしても、英国は、アデン(Aden)、コロンボ(Colombo)、シンガポール(Singapore)、香港(Hongkong)に、要塞、避難港、ドックと修理工場、石炭貯蔵施設、食糧補給施設からなる一連の拠点を有している。
これらによって、英国海軍と英国商船隊は、他国の追随を許さない地位を確保しているのである。
そして英国民の間でもようやく、このような拠点のなかでも、最も防備が堅固で、最も重要で、しかも最も便利な位置にあるものの一つがシンガポールであることが知られ始めている。
さらに人々は、シンガポールがマラッカ海峡(Straits of Malacca)に位置していること、そしてこの地が英国のものとなったのは、サー・スタンフォード・ラッフルズ(Sir Stamford Raffles)の先見の明と強い決意によるものであったことを、ようやく知り始めている。
ラッフルズは、大英帝国を築いた最も偉大な人物の一人でありながら、最も知られず、最も正当に評価されてこなかった人物の一人なのである。
出典:“THE REAL MALAY, PEN PICTURES”, A NEW METHODより

Swettenham はまず、1899年という時点でシンガポールとマラッカ海峡が世界政治・海軍戦略のなかでどのような位置を占めていたのかを、日清戦争、三国干渉、列強による中国進出、米西戦争という大きな国際情勢から描き出している。極めて貴重なエッセイである。
彼の記述には、19世紀末の英国帝国主義者の世界観がかなり直接的に表れている。ここは現代的に穏当な表現へ直してしまうより、Swettenham が1899年に何を当然の前提として考えていたかが分かるように残すほうが、史料翻訳として価値がある。
シンガポールとマレー半島
私はシンガポールは重要で、しかもきわめて便利な位置にあると述べた。それは、シンガポールがセイロンと香港とのほぼ中間に位置しているからであり、マラッカ海峡を通る航路によって南シナ海への入口を押さえているからである。
さらに、シンガポールを中心として半径1千マイルの円を描いてみれば、その円は、シャム、ボルネオ、フィリピン諸島の一端、コーチシナにおけるフランス領、そしてジャワ、スマトラおよびマレー諸島におけるオランダ領を横切るか、あるいはその内部に含むことになる。
しかも、シンガポール自体は非常に小さな島ではあるが、その後背地(hinterland)としてマレー半島を擁している。また、先に挙げた国や地域のうち、最初の二つ(それ自体が英国領であるセイロンと香港)を除くすべてにとって、シンガポールは中央市場、あるいは積み替え港となっている。
シンガポールは一大流通拠点であり、膨大な石炭の備蓄を有し、さらに船舶の入渠・修理設備を備えている。その設備は、極東においては、同じく英国植民地である香港を除けば、他に比肩するものがないほどのものである。
シンガポールが商業上いかに重要であるかを理解するには、ハワード・ヴィンセント大佐(Colonel Howard Vincent)の世界統計地図を参照するのがよい。ここではただ、1898年にシンガポールへ入港・出港した船舶の総トン数が1千万トンに達し、同年におけるこの港の貿易額がおよそ三億五千万ドル、すなわち約三千五百万ポンドに相当したとだけ述べておこう。
シンガポールは赤道から北へわずか一度余り、またアジア大陸最南端から二十マイル以内のところに位置しており、1819年に英国によって獲得された。そして1867年までは、ペナン、マラッカおよびウェルズリー州(Province Wellesley)とともに、インド統治機構の下に置かれていた。(訳註:即ち大英帝国の統治下であった)
1867年、この地域は(新たな植民地に付けられた名称としては、いかにも不幸なものであったが)「海峡植民地(Straits Settlements)」として植民地省(Colonial Office)の管轄へ移された。そして、ここからその一層大きな繁栄の時代が始まったのである。
この時期まで、そしてそれ以後もしばらくの間、英国政府は、繰り返し介入を求められていたにもかかわらず、マレー半島のマレー諸国(Malay States)への干渉を断固として拒んでいた。
しかし、長年にわたって相次いださまざまな挑発的事件と、サー・アンドリュー・クラーク少将(Major-General Sir Andrew Clarke)の総督就任とが重なった結果、1874年には、それまでとはまったく異なる新しい方針が採用されることになった。
すなわち、マレー半島南部を英国の保護下に置くという政策である。
それ以来、海峡植民地の歳入は3倍に増加した。シンガポールの港湾には防衛施設が整備され、駐屯軍も増強された。そして、この英国領の繁栄と重要性は、そのすぐ背後に位置する英国保護下のマレー諸国(Protected Malay States)の発展と歩調を合わせるようにして増大していったのである。
出典:“THE REAL MALAY, PEN PICTURES”, A NEW METHODより
これまでペラ州の歴史シリーズで詳しく紹介した史実が述べられている。これが英国から見たマレー半島の近代化の第一歩といった認識である。
ただし、この文章から、ごく単純に「1874年にマレー半島南部全体が英国保護領になった」と認識するのは少し危険である。1874年はまさにパンコール条約とペラへの英国レジデント(常駐の行政監督官)導入の年であり、その後セランゴール、ヌグリ・スンビラン、パハンへと英国のレジデントを通じた介入が拡大していった。Swettenham は1899年の時点から、この一連の展開までをまとめて「保護領になった」と言い切っていることに留意すべきである。
Swettenham は、シンガポールの繁栄とマレー半島内陸部の英国による開発・統治を、一つの経済圏の発展として結びつけている。植民地政府独自の大局観である。
最後までご覧いただき、ありがとうございます。
次回も本書の内容を続けて紹介します。