【馬国】 19世紀ペラ州の歴史(7)

馬国

前回の投稿から半年以上のブランクとなりましたが、今日は、19世紀のペラ州の歴史でも最大級の異変でもある英国駐在官の暗殺事件を取り上げます。

この出来事は1875年の11月に起きたマラヤ半島北部のペラ領(当時マレーシアは英国による植民地支配下にあった)の王族と首長の集団が、当時の大英帝国の現地官吏であるジェームス・バーチという40歳代前半の公人を殺害したというもので、この事件をきっかけに現地のスズ鉱区における中国人組織やマレー人の首長達の利権争いの時代から、ついに英国軍とマレーの地方部族の局地的な戦争にまで発展するきっかけとなった事件です。

場所の確認をするために、ペラ州(当時はベラ領域の王族の領土)の位置と、ベラ川流域の幾つかの拠点をしめずマップを掲載します。本日掲載するマップや写真は全て100年以上前の書籍にあるものやウィキペディアに掲載されたもので、著作権の問題はありません。

アイキャッチ画像を含む挿絵は全てAIによる創作であり、他の書籍や文献にあるものではありません。

そして今回の暗殺の史実や顛末の文章は、バーチ駐在官吏の後輩にあたるフランク・スウェッテンナムが1895年3月28日に公開した「マレイ・スケッチ」という回想録からの抜粋を翻訳したものです。文中には私が書き足した文章も含まれます。

マレイ・スケッチより:ペラク川の暗殺

1875年11月2日

この時期、日本はすでに戊辰戦争を終え、明治天皇以下薩長の雄藩軍団が日本の政治・軍事・教育環境を急速に発展させていた時期であり、岩倉具視が率いる岩倉使節団が英国や米国を訪問して欧米列強の文明や軍事のあるがままを見聞し、学制が発令され、1984年には全国的な「自由民権運動」で議会政治の基礎が形となってきていた時代です。

日本人の中で日本刀や脇差を持って歩く人はわずかとなり、当初は西洋風になり、背広をきたビジネスマンが都市圏で活躍し初めていた時代でした。スウェッテンナムが書き下した史実を紹介します。

英領マラヤ、ペラク川のほとり、パシール・サラク。この地で英国のペラク駐在官、ジェームズ・ウィーラー・ウッドフォード・バーチがマレー人の手によって暗殺された。本記録は、この殺害がなぜ、そしてどのように行われたのか、その背景を詳述するものである。

海軍から植民地行政へ

バーチの経歴は、英国海軍の士官候補生として始まった。その後、海を離れセイロン(現スリランカ)の政府職に転身。同島で人生の最盛期を過ごした彼は、東部州の政府代理官という島内屈指の要職にまで登り詰めた。

1870年、バーチは海峡植民地の植民地秘書官に任命される。1874年、当時の総督アンドリュー・クラーク少将がペラクの首長らと「パンコール条約」を締結し、英国政府とマレー諸州の関係に新たな局面を切り開くと、バーチはその困難な任務―ペラク・スルタンへの助言者というポストに抜擢された。

未知の土地、不可能な任務

1874年末に職務に就いたバーチは、すぐに困難な状況に直面する。自分が相手にすべき人々、そして命令を強制する権力の欠如。彼が引き受けたのは、到底達成し得ない「不可能な任務」であった。

当時のマレー半島は、白人にとっての「テラ・インコグニタ(未知の土地)」であった。マレー人の特性、習慣、独特の偏見を、当時の英国人はまだ何一つ理解していなかったのである。半島内の諸州の中でも、ペラクは「駐在官による統治」という危険な実験を開始するには、最も不向きな場所であったと言える。

* 根深い因習: 幾世代にもわたりこの地に住まうマレー人は、古くからの伝統と迷信に支配されていた。

* 権力の乱立: 既得権益を主張するラジャ(王族)や首長が無秩序に存在した。

* 債務奴隷制: イスラムの教えに反しながらも、上流階級が固執する悲惨な奴隷慣習が蔓延していた。

* 内部抗争: スルタンの位を巡る対立と、権力者たちの嫉妬が国を切り裂いていた。

そして「白人」という存在は、この地ではまだ「未知」であり、「恐れるに足らぬ」存在だったのである。

孤立する駐在官

バーチには致命的な弱点があった。東洋での長い経験にもかかわらず、マレー語を解さず、彼らの文化への理解も乏しかった。優秀な通訳を伴ってはいたが、首長や民衆と直接対話できないことは、彼の困難を増大させた。

しかし、バーチは困難を前に屈する男ではなかった。彼は精力的に国内を巡回し、不正をただし、人命を救い、有罪者を処罰しようと奔走した。当時のスルタン・アブドゥラとその一派に対し、悪習を改めるよう迫り続けた。その妥協なき姿勢は、法の支配を嫌い、無秩序な状態を好む特権階級からの激しい反発を招くこととなる。

暗殺の真実

バーチのペラク駐在期間は、わずか12ヶ月に満たない。彼とアブドゥラの関係がいかに悪化したかを詳述すれば一巻の本になるだろうが、ここでは重要な事実のみを記す。

断言すべきは、バーチの暗殺は純粋に、かつ完全に政治的理由によるものであったということだ。

彼は白人であり、キリスト教徒であり、余所者(よそもの)であった。彼は休みなく動き回り、山に登り、国中を旅した。殺人者や悪党の邪魔をし、スルタンに改革を迫り続けた。マレー人にとって「変化」は疑念と不信の対象であり、彼らの目にはバーチの行動そのものが「犯罪」と映ったのである。

一部の欧州人が示唆するような「非政治的な動機」など、微塵も存在しない。マレー人自身も、彼個人の人格には恨みはなく、むしろ彼の慈悲深さに感謝していた者すらいたことを認めている。

行き詰まりと総督の決断

1875年9月までに、事態は完全にデッドロックに陥っていた。

* ペラ川下流地域:*英国が擁立したスルタン・アブドゥラ。彼は自ら英国の助言を求めておきながら、駐在官の勧告を一切拒絶した。

* 上流地域:首長らによって選出されたもう一人のスルタン・イスマイル。

* さらに上流:正当な王位継承権を持ちながら、人望のなさゆえに拒絶されていたラジャ・ムダ・ユスフ。

「駐在官制度」の成功は、スルタンと駐在官の信頼関係に懸かっていた。しかし、それは完全に欠如していた。事態を重く見た当時の海峡植民地総督ウィリアム・ジャーヴォイス少将(Major-General Sir W. Jervois, R.E.) は、自らペラクを訪問。行政権の確立と徴税、パンコール条約の履行を確実にするための策を講じた。

総督はアブドゥラに対し、英国官吏による名代統治を提案した。アブドゥラは数日間躊躇したが、政敵であるラジャ・ムダらがこの提案を即座に受け入れたことを知り、自らが統治から完全に排除されることを恐れ、これに同意。

この決断が、悲劇的な暗殺へと繋がるカウントダウンとなったのである。

1875年、断食月(プアサ)

一連の事件は、マレーの人々にとって極めて神聖な時期に発生した。この時期、マレー人は日中の労働を避け、夜間に会合を重ねては議論や謀議にふける傾向がある。特に政治に関与する上流階級において、その傾向は顕著であった。

ペラク川下流地域では、このラマダン(断食月)の間、スルタン・アブドゥラと首長たちの間で異例の頻度で協議が行われていた。彼らの結論は一つ、「英国駐在官を排除する」こと。そして首長の一人、マハラジャ・レラが、次回のバーチ来訪時にその実行を引き受けることを宣言した。

首長マハラジャ・レラの動向

マハラジャ・レラは、スルタンから数えて第7位の位階を持つ有力な首長である。彼はバーチの居所からわずか5マイル(約8キロ)の位置に住んでいたが、可能な限り接触を避け、二人のスルタン(アブドゥラと前スルタン・イスマイル)の両方と親交を維持していた。

ここでアブドゥラと前スルタン・イスマイルという二人のスルタン(王位)が登場する。初めて読まれる方は違和感を感じると思いますが、これまでのペラ州の歴史の記事を読まれた方はご記憶に残っているはずです。アブドゥラはその優柔不断な性格から、まともな道筋ではスルタンを継承できなかった皇族であり、彼は英国の総督との繋がりから政治的に「英国の認知」の元でスルタンの位を手にした人間であり、前スルタンのイスマイルはその当時のペラの首長達が選んだ正統なスルタンなのです。いわばイスマイルは保守派民族派の王位であり、アブドゥラは英国にとりいった日和見主義でマレーの首長達からは嫌われていたスルタンと言えます。

物語を書いているスウェッテンナムは英国の官吏ですから、英国が認めたアブドゥラをスルタンとして説明するのが筋ですが、彼(スウェッテンナム)はマレーの言語を覚え、彼らの文化を深く理解する努力をしてきた官吏だったので、前スルタンの存在を無視できない現地の政治情勢を熟知していました。だから、前スルタンの存在にも十分な敬意を払った書き方になっているのでしょう。

話をスウェッテンナムの物語に戻しましょう。

・・・

断食月の最中、アブドゥラは「国政をバーチに委ねた」と首長たちに告げた。他の者が沈黙する中、マハラジャ・レラだけは毅然と反旗を翻した。

「殿下がそうされたとしても、私は知らぬ。英国人の権威など断じて認めない。イスマイルらからも、英国政府には決して従うなとの書簡を得ている。パシール・サラクの我が村(カンポン)にバーチを一歩たりとも踏み込ませはしない」

対岸に住むダトー・サゴールもこれに同調した。マハラジャ・レラは即座に米を積んだ舟で自領へ戻り、自邸の周囲に堀を掘り、防壁を築くなど、着々と戦闘準備を整えていった。

11月2日:パシール・サラクの朝

バーチ駐在官は、11月1日の深夜、3隻の舟でパシール・サラクに到着。

この日は断食明けの祝祭「ハリ・ラヤ」の当日であった。バーチの舟は、川辺に立つ華僑の宝石商の浮き風呂小屋に係留された。

バーチの一行は約40名。護衛のシーク教徒兵士12名、通訳のムハンマド・アルシャド、そして舟漕ぎや使用人たちが同行していた。一行は小口径の砲や英軍制式銃、マレーの武器などを装備していた。

午前、同行していたアボット少尉が対岸へ猟に出かけた直後、バーチはダトー・サゴールと面会した。その後、通訳のアルシャドがマハラジャ・レラの屋敷を訪れ、面会を求めたが、レラは「バーチに用はない」と一蹴している。

暗殺の瞬間

駐在官到着の報を受け、川岸には槍やクリス(短剣)で武装した60〜70名のマレー人が集結していた。不穏な空気の中、バーチは通訳に命じて、英国による統治を宣言する布告を華僑の店のシャッターに掲示させた。

しかし、マハラジャ・レラの義父パンダク・インドゥトが即座にこれを引き剥がした。レラからの命令は明確だった。「布告を引き剥がせ。それでも貼るなら、殺せ」

午前10時。バーチは朝食の準備を命じ、一人で浮き風呂小屋に入った。入り口には装填済みのリボルバーを持つシーク教徒の護衛兵が立っていた。外では武装した群衆が殺気立っていたが、バーチは冷静に水浴びを続けていた。

突如、パンダク・インドゥトが再び布告を破り捨てた。通訳のアルシャドが抗議した瞬間、パンダクの槍が彼(通訳)の腹部を貫いた。

続けてパンダクは叫んだ。

「バーチは風呂小屋の中にいるぞ! 殺せ!」

「アモク(戦え)! アモク!」という叫び声と共に、暴徒たちは浮き風呂の木材に飛び乗り、バーチが居る風呂小屋の外装の隙間から槍を突き刺した。

ウィキペディアより、バーチの暗殺に使用されたとされる剣が今でもクアラルンプールの国立博物館に展示されているという

バーチは声を上げる間もなく、水中に没した。そして彼が再び水面に浮き上がったとき、待ち構えていたシプタムという男が剣で彼の頭部を切り裂いた。駐在官の姿はそのまま川底へと消えた。

護衛のシーク教徒兵士は、主人を助けることなく川に飛び込み、舟へと泳いでその場を逃れていた。岸辺は乱闘状態となり、マレー人舟漕ぎ1名とシーク教徒1名が殺害された。

重傷を負った通訳のアルシャドは、仲間に助けられ辛うじて舟に引き上げられたが、下流のバンダル・バルへ向かう途中で息を引き取った。

暗殺の知らせ

駐在官、通訳、シーク教徒兵士、そして舟漕ぎの殺害から、生き残った者たちの脱出劇に至るまで、これらすべてはわずか数分間の出来事であった。闘争の熱気と血への渇望が依然として群衆を支配する中、マハラジャ・レラは彼らの中へ歩み寄り、誰の手によって駐在官らが仕留められたのかを問うた。即座にパンダク・インドゥト、シプタム、その他の者たちが、自らの殺害における功績を主張した。

これに対し、首長(マハラジャ・レラ)は「良し。直接手を下した者のみが、戦利品を分かつ権利を得る」と宣言した。次いで彼は一人の男を前に呼び寄せ、「ラクサマナ(海軍大臣に相当する要職)のもとへ行き、私がバーチを殺害したと伝えよ」と命じた。この伝言はその日のうちに届けられ、ラクサマナは「承知した。私からスルタンに報告する」と応じた。

その夜、マハラジャ・レラは前スルタン・イスマイルに対し、自らの犯行を詳述した書簡を送付した。その際、事実に疑いの余地を挟ませないための確固たる証拠として、殺害した駐在官本人の舟をあわせて送り届けたのである。

その後、駐在官事務所(レジデンシー)への夜襲も計画されたが、雨と守備の固さを恐れた襲撃隊は引き返した。

バーチの遺体は、友好的なマレー人の手によって収容され、11月6日の夜、バンダル・バルに埋葬された。その後、マハラジャ・レラとダトー・サゴールは村を要塞化して抵抗したが、英軍の攻撃により村は破壊され、反乱軍は駆逐された。

この犯罪に直接、あるいは間接的に関与したほぼ全ての者が、遅かれ早かれ報いを受けることとなった。ある者は戦闘で倒れ、ある者はジャングルの逃亡者としてその生涯を閉じた。

事件の終焉

最初に捕らえられたのは、実行犯のシプタムであった。1876年初頭のある夜遅く、彼はバンダル・バルへと連行された。スェッテンナムが真夜中頃に留置所へ彼を訪ねると、そこにはこれ以上に荒々しい風貌の者はいないと思わせるほどの男がいた。彼は「パワン」と呼ばれる祈祷師であり、呪術師でもあった。数週間にわたる逃亡生活で追われる身であった彼は、捕縛されることが、それまでの過酷な生活よりも幾分かましであると感じているようだった。彼は床に座り、壁の蚊を潰しながら、バーチ氏殺害における自らの関与について淡々と語った。彼は自発的にこう述べた。「バーチ氏は自分に親切にしてくれた良い人だった。自分が行ったことは、服従の義務がある首長の命令に従ったまでだ」と。

個人の行動に対する責任は個人にあるという教義は、彼にとって未知の概念であった。彼がそれを学んだ時には、もはや手遅れであった。

1875年11月2日のパシール・サラクにおけるバーチ氏らの殺害容疑により、1876年12月、マハラジャ・レラ、ダトー・サゴール、パンダク・インドゥト、および他4名が、ラジャ・ムダ・ユスフとラジャ・アラン・フセインの面前に引き出され、罪に問われた。

政府側からはダンロップ大佐と筆者(スウェッテンハム)が検察官を務め、被告側にはシンガポール法曹界の有能で経験豊富な弁護士が弁護に当たった。8日間に及ぶ公判の結果、被告らはそれぞれ有罪判決を受け、死刑を宣告された。ただし、極刑が執行されたのは、先に挙げた上位3名(レラ、サゴール、インドゥト)のみであった。

暗殺への関与が動かぬ証拠によって立証されたスルタン・アブドゥラ、およびその他の首長たちは、ペラク州からの追放に処された。前スルタン・イスマイルとその支持者の一部に対しても、同様の追放刑が言い渡された。

英国政府は、バーチ氏という極めて勇敢で有能、かつ熱意に満ちた官吏を失った。しかし、彼の死によって不可避となった一連の軍事・行政措置により、ペラク州は、単なる「助言」だけでは10年かけても成し遂げられなかったであろう進歩を、わずか12ヶ月の間に手にすることとなった。それだけではない。この12ヶ月間の出来事が白日の下にさらされたことで、マレー人の内面生活やその特異な性質が浮き彫りとなり、それは一種の啓示とも言える発見をもたらした。この教訓を忘れ去り、その教えを軽視することはできない。

1985年3月28日 フランク・スウェッテンナム、『マレイ・スケッチ』XIX節より

最後までご覧いただきありがとうございます。

1875年(明治8年)の主な出来事(日本国内)

  • 政治・外交
    • 大阪会議(1-2月): 大久保利通、木戸孝允、板垣退助が会談し、立憲政体樹立に向けた政権再結束を図る。
    • 立憲政体樹立の詔(4月14日): 漸進的な立憲体制への移行が宣言され、元老院・大審院が設置された。
    • 樺太・千島交換条約(5月7日): ロシアと締結。樺太(サハリン)をロシア領、千島列島を日本領として国境を確定。
    • 江華島事件(9月20日): 朝鮮江華島付近で日本の軍艦「雲揚」が砲撃を受け応戦。朝鮮の開国を迫る端緒となる。
  • 会・制度
    • 平民苗字必称義務令(2月13日): すべての国民に苗字(姓)を持つことを義務付けた。
    • 郵便貯金創業(1月): 前島密の提唱により、日本初の郵便貯金事業が開始される。
    • 地方官会議(6-7月): 東京・赤坂仮御所で全国の府知事・県令を集めた会議を開催。
  • 化・産業
    • 犬吠埼灯台(千葉県)が初点灯。
    • 横浜でパンの店(ヨコハマ・ベーカリー)が創業するなど、食の欧米化が進行。

この年は、前年の台湾出兵や佐賀の乱といった動乱を経て、政府が国内の安定と対外的な権益確保に大きく舵を切った転換点と言えます。 

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