馬国 19世紀ペラ州の歴史

馬国

アイキャッチ画像は現在のペラ州、クアラ・カンサーのイスラム系モスク photo by envato elements with all rights reserved.

19世紀、大英帝国の「海峡植民地」として統治されていたマレーシア。この時代の歴史といえば、首都クアラルンプールを擁するセランゴール州が注目されがちですが、実はペラ州(Perak)の歴史もまた、それに匹敵するほど劇的で重要な出来事の宝庫でした。

ペラ州で起こった出来事は、マレーシアだけでなく、当時東南アジアに勢力を広げていたイギリス、東インド会社、そして海峡植民地政府の歴史とも密接に絡み合っています。中には、現地の民族に暗殺された英国人官吏の悲劇もあれば、英国の技術と知識によってペラ州やセランゴール州の経済・インフラ発展に大きく貢献した著名な英国人の物語も数多く存在します。

しかし、この重要な時期のペラ州の史実は、日本ではほとんど知られていません。イギリス本国ではよく知られた事実ばかりですが、日本ではほとんど光が当たっていないのが現状です。日本語版ウィキペディアを見ても、その情報量の少なさに驚かされます。

ペラ州は錫(すず)の産地として有名だった。

幸いなことに、英語版ウィキペディアや、一般公開されたブログやウェブサイトには豊富な情報が掲載されており、そこからペラ州の「素顔」を垣間見ることができます。筆者は2025年6月から、この19世紀ペラ州の史実について日本語版ウィキペディアへの掲載を始めました。ほとんどが英語版の翻訳ですが、英語版で説明が不足している部分については日本語版で追記し、日本の読者にも分かりやすい内容を心がけています。

これまでに公開した主な記事はこちらです!

ぜひこれらの記事も合わせて読んでみてください。(この記事では、ウィキペディアに書けない内容を中心に投稿しています)

19世紀の恐ろしい奴隷文化:想像を絶する日常

さて、ここからは少し衝撃的な内容になります。

19世紀のマレー民族や移民の日常は、現在のマレーシアでは想像もできない「別世界」でした。当時のマレー半島は、まさに「異世界」と呼ぶにふさわしい状況だったのです。

参考までに、英国の著名な作家が残した歴史書から、当時のペラ州の情景をご紹介しましょう。舞台はイギリス海峡植民地だったマレー半島北西部に位置するペラ州です。

ラルート地区(現在のペラ州タイピン市)の華人指導者が叫ぶように声をあげていた。「英国旗がペラ州の空に翻る時、全ての華人はひざまずき神を讃えるだろう」そう言うのも無理はない。(中略)この場所では、イスラム教徒以外は誰も法的権利を持っていなかった。ペラの法典を読むと、例えば、「開墾した森林はイスラム教徒に限り所有権が認められる」と定められていた。原住民は異教徒として動物のように狩られ、奴隷にされた。1874年にバーチ氏が書いたように、サカイ族(オラン・アスリ)の殺害は犯罪ではなく、全く問題にされなかった。イスラム教徒でさえ、弱腰な人間は不遇だった。力だけが物を言う社会で弱腰の人間が権利を享受できていたとは言い難い。

あるスルタン(ペラ州の皇帝)が病で苦しんでいた時、宮殿で見つかった精神病の女は魔女として処刑されたそうである。その皇帝の後継者の治世で、あるマレー貴族の領主が配下の一人にタミル系イスラム教徒の少女と婚約することを許したが、その後、自分がその少女と結婚したくなったために許可を取り消した。彼女の元婚約者が力ずくで彼女を奪うと、憤慨した領主が彼女を奴隷としてスルタンに献上してしまった。

ペラ州の奴隷は惨めなものだ。マレー語の法律書はそれなりの内容を持ってはいたが、実際の法律の遵守はほとんどなされていなかった。ペラ州の刑法には「もし奴隷が自由人を襲ったなら、その奴隷は同様に襲われて手を釘で打ち付けられる。被害者の自由人はその奴隷の妻を自由にできる」とある。同様に「奴隷の貸し出しは、杖をひとつ貸し出すのと同等である。」逃亡した奴隷を匿ったものは誰であれラタンで耳を弾かれ、同罪の女性は頭髪を剃り落とされ打ちのめされた。奴隷の女性が孕った場合、その奴隷を買った所有者は粗悪品として女を返却できた。そして産まれた子は所有者のものとされた。

引用元:R.O.WINSTEDT and R.J.WILKINSON, Journal of the Malayan Branch of the Royal Asiatic Society in June 1934. 「A History of Perak」Page 91, Section VIII, British Intervention, https://dokumen.pub/a-history-of-perak-2nbsped.htm

人権という概念がなかった当時の社会がいかに恐ろしいものだったか、この記述からも痛いほど伝わってきます。

1874年当時のペラ州の人口は約48,000人でしたが、そのうち3,000人もの人々が奴隷として扱われていました。土地の領主や皇族は、海外旅行や私生活において多くの奴隷を使っており、奴隷は主人の住居の周辺に住まわされ、態度が悪いと鞭打たれたり拷問に晒されたり、時には殺されることさえあったそうです。

さらに恐ろしいのは、借金を返せない自由人を奴隷にできるというルールです。悪質な領主たちは、特定の人間を奴隷にするために架空の借金をでっち上げ、人々を奴隷にしていたようです。一度奴隷にされてしまえば、どれだけ働いても対価は保証されず、主人の家事を手伝ったり、畑を耕したり、錫の鉱区で働かされたり…まさに終わりなき労働を強いられていました。

一見して仲良さそうなペラ州のスルタン(中央)とその配下のマレー民 (1874年) よく見ると、後日マレー人に暗殺されてしまう英国の官吏が一緒に写っている。

奴隷は主人から衣服を与えられることもありましたが、ほとんどの場合は自分で調達しなければなりませんでした。当時のペラ州では、借金を返済できない女性は債権者の妾として扱われ、誰も助けることはできませんでした。家族の主人の負債は、その妻や子供の負債として扱われ、キンタ地区では債権者の借金が6ヶ月ごとに3倍になるという恐ろしい慣習まで存在したのです。

イギリスによる奴隷制廃止への動き

こうした地獄のような奴隷制度を、当時の英国植民地政府や官僚がただ傍観していたわけではありません。実は、すでに1833年には英国議会で「奴隷廃止法」が国内法として可決されており、1843年にはこの法律がイギリスの占領地にも適用されることになっていました。

これにより、マレー半島においても、なんとかして内政干渉を行い、奴隷制を廃止させようとする努力が始まっていたのです。

次回は、この奴隷社会に英国の植民地政府がどのように介入し、奴隷制廃止に向けて動き出したのか、その詳細な歴史を解説していきます。どうぞお楽しみに!

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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