【馬国】 19世紀ペラ州の歴史(4)

馬国

アイキャッチ画像は、第9代海峡植民地総督であったアンドリュー・クラーク。写真は英国の王立アジア協会のマレーシア支局発行の History of Perak という文書から転載しています(public domain)

前回の記事

1874年1月、マラヤ半島史における転換点となったパンコール条約の交渉が行われました。当時、英国植民地政府の最高責任者としてこの歴史的交渉をまとめたのが、当時の海峡植民地総督、アンドリュー・クラーク英語)でした。そして、その側近として重要な役割を担ったのが、若き文官フランク・スウェッテンナムです。

条約は蒸気船の上で調印された。この写真がその蒸気船かどうか、今ひとつ確証がありませんが、このような船だったようです。

今回は、この歴史的会談の舞台裏で何が語られ、何が動いていたのか、彼らの「独白」と「回想録」からひも解いていきたいと思います。

クラーク総督の胸中

1784年のパンコール条約交渉を終え、一息ついているクラーク総督の独白を考えてみました。当時の緊迫した状況と、植民地政府トップの責任感を表現したものです。(史実に基づく創作ですので実在する独白ではない)

「ようやく条約交渉が終わって一息ついているところだ。草案から最終版まで文章をまとめたフランク(スウェッテンハム)には助けられた。24歳の若造にしてはずいぶんと頭の切れる文官だ。今後のペラ州の内政管理にも参加して大いに力を尽くしてほしい…」

クラークは、若干24歳のフランク・スウェッテンハムの才能を高く評価し、その手腕に将来のペラ州の内政管理を託そうとしていたことが伺えます。当時の人類の平均寿命が50歳以下であったことを考えると、50歳を迎えていたクラーク総督が自身の「隠居」を意識していたことも興味深い点です。

「今年50歳になる吾輩もそろそろ隠居する時期が近い。今回の会合でも大勢集まったが、私より年上の指導者なり領主はいなかった。年齢が高いから偉いというわけではないが、人生経験においては私が最も長い。今回の交渉で関係者が時分の立場をよく理解して自重するところは自重してくれることを期待したい。何となく違和感が残っているので…」

この「違和感」という言葉は、条約交渉の裏に潜む複雑な思惑や、今後のマラヤ統治における懸念を示唆しているかのようです。

クラーク総督が海峡植民地に着任したのは1873年10月。前任の総督が疲弊するほど、当時のマラヤの情勢は悪化していました。

「前任者のオード総督は疲弊していて、充分な会話が出来なかったが、なにしろマラヤの小王国で起きている武力衝突がひどくなる一方で、現地のマレーの指導者や華人の有力者からは次々と陳情書が送られてくる毎日だった。死傷者の数の報告にも聞きあきたほどひどい状態だった。」

内戦が激化し、死傷者が続出する状況は、まさに「聞き飽きるほど」だったと。シンガポール、マラッカ、ペナンの海峡植民地こそ平穏だったものの、マラッカ海峡では海賊行為が横行し、英国船舶までが被害を受けていたという事実は、英国が「不干渉主義」を貫いてきた結果がいかに悲惨な状況を生み出していたかを物語っています。

この状況を打破するため、ヴィクトリア女王はマラヤの小国への内政干渉を認める方針を示しました。しかし、その実施には困難が伴いました。

「昨年末にかけて女王陛下が、マラヤの小国への内政干渉を認める方針を示したのは英断だったが、これまで不干渉主義をつらぬいた結果の荒れ果てたマラヤをどうやって平定するかについては頭が痛い。進軍して圧力をかければ良いだろうが、そんなことのための予算などありはしない。」

英国政府からの予算が期待できない中、クラーク総督は現地からの弁済を前提とした治安維持に乗り出すしかありませんでした。まさに、現地の混乱が原因である以上、その費用も現地のスルタン小国が負担すべきだという、植民地政府の厳しい現実が垣間見えます。

そして、この混沌の中で、クラーク総督の目に留まったのが、歴史的な意味を持つ書簡でした。

1873年のクラーク聖徳の写真。おそらくシンガポールの植民地政府への着任前のもの。

「三日とおかずに送られてくるマラヤの人民からの苦情や英国の軍事的出動の要請書の中に、何かヒントになる内容が無いか探っていたのだが、11月になって注目に値するという陳情書が舞い込んできた。この書簡には歴史的な意味があった。ペラ州の王子、ラジャ・アブドゥラの書簡だ。質の高い文章から推察できるのは、欧州の商人やシンガポール在住の架橋がバックについているようだった。有識者がアドバイスして出してきたのだから、単なる御曹司のたわごとではなかろう。スルタンが初めて英国による行政管理を希望してきた瞬間だ。」

ペラ州のアブドゥラ王子からの書簡は、英国による行政管理を初めて希望する内容であり、これはまさに、英国の植民地政策に大きな転換点をもたらすきっかけとなったのです。

スウェッテンナムの回顧録

クラーク総督の「秘蔵っ子」と称されたフランク・スウェッテンハムは、自身の著書『マレー・スケッチ』の中で、当時のラルート問題を詳細に描写しています。その文章からは、作家としての彼の才能と、冷静な観察眼がうかがえます。

1873年、アンドリュー・クラーク陸軍少将が海峡植民地の総督に任命された。ちょうどその頃、植民地政府にはマラヤ半島の惨状についての苦情が殺到しており、クラーク卿は事態の調査と、英国による介入の是非、さらにインドの土侯国で実施されていたような英人顧問制度の導入が可能かつ有効かどうかを判断する任務を帯びて赴任した。まるで新総督を歓迎するかのように、西海岸のすべてのマレー諸国から激しい内紛の報が相次いで届いた。

スウェッテンハムの言葉は、クラーク総督の赴任がいかに緊急を要するものであったかを明確に示しています。特にペラ州では、中国人鉱山労働者たちの統制が失われ、その抗争はマレー人同士の戦いよりも激しく、残虐な様相を呈していました。

ペラ州では鉱山労働に従事していた中国人たちが完全に統制を失い、マレー人同士の戦いでは見られないような激しく残酷な様相を呈していた。ある派閥は沿岸部へと追いやられて食料を断たれ、窮地に追い込まれた末、遂に海賊行為に転じた。彼らは櫓こぎの高速船であらゆる航行船を無差別に襲撃し、積荷を略奪し、乗組員を殺害して船を焼き払った。

食料を断たれた中国人鉱山労働者たちが海賊行為に走ったという記述は、当時の社会情勢がいかに深刻であったかを物語っています。英国艦隊が数か月間警備にあたっても海賊を捕らえられず、ついには海軍将校が負傷するという事態にまで発展したことで、総督による武力介入が始まったのです。

中国人同士の抗争は、秘密結社間の抗争へと発展し、ペラ州内にとどまらず、ペナンの結社指導者の支援を受けて英国領地域にまで拡大していました。

中国人同士の抗争は秘密結社の抗争へと発展し、彼らはペラ州内の戦いに飽き足らず、ペナンの結社指導者らの支援と指示のもと、境界を越えて英領地域の拠点を攻撃した。ラルートの首長(イブラヒム)がペナンに持っていた邸宅が爆破されたのもその一環であり、彼らはそれによって恨みを晴らすと同時に、イブラヒムの影響力を排除しようとした。

そして、この混乱の中で、スウェッテンハムもまた、英国の介入を求める声があったことを記録しています。

そして、ペラのスルタン位の継承を巡って争っていた三人の王子のうち一人が総督に書簡を送り、統治の秘訣を教えてくれる英人将校の派遣と援助を懇願してきた。

この記述は、クラーク総督の独白と符合しており、アブドゥラ王子が英国の行政管理を求めた背景には、深刻な内戦と、その打開を望む現地勢力の存在があったことを明確に示しています。

1875年に撮影されたこの画像は、1874年に調印されたパンコール条約に関与した英国の行政官と将校。中央に座っているウィリアム・ジェヴォワ卿は、クラーク総督の後任となる人物。左から立っているのは、アンダーソン博士、イネス大尉、F・マクネア少佐、ヘンリー・マッカラム中尉、J.W.W.バーチ、W・ナッグス(明るい色のスーツを着用)、スピーディ、24歳の文官フランク・スウェッテナム。(出典:マレーシア国立公文書館)

パンコール条約の背景と矛盾

歴史は常に、様々な立場の人々の思惑と行動が複雑に絡み合って形成されるものです。長引く内戦に翻弄されていた地域の安全保障システムを発動したパンコール条約は、ある意味で正義の施策ではあったものの、そこには交錯する常識論や根本的な誤解が紛れ込んでいたようです。(あくまで筆者の見解ですが)

ラルート紛争が始まった1861年からマラヤの治安維持が落ち着いた1876年までに、植民地政府の総督は3度も交代しています。1867年に着任したハリー・オード、1874年に着任したアンドリュー・クラーク、そしてパンコール条約後の1875年に着任したウィリアム・ジェルボワです。オードの時代までは英国によるマラヤの行政管理への介入は禁じられていましたが、クラークの着任と同時に必要に応じた行政介入の推進が始まり、行政介入型政府の総督としてはクラークが最初だったのです。

しかし、総督に着任した人物がいかに優秀であっても、たった数年の滞在で当時のマラヤの宗教や慣習の隅々まで理解できるでしょうか? 筆者には出来るとは思えません。

ヴィクトリア女王は、クラーク総督による行政介入の時期に、大きく3つの条件を付けていました。

  • マラヤの諸州の王侯政府への介入は、あくまで王侯政府がそれを望んだ場合に実行すること。
  • 行政介入の手法には英国の監督官を現地の王宮に常駐させることを検討すること。
  • 行政上の関与に関わる費用は植民地政府が負担すること。

これらの条件を示す英国政府の指示文書が残っています。1873年9月20日に英国政府から植民地総督に発行された書簡(Page 96, A History of Perak, R.O. Winstedt & R.J. Wilkinson, The Malaysian Branch of the Royal Asiatic Society, 1874)には、次のように記されています。

“In a despatch to the Governor… on 20 September 1873, the policy of non-intervention was avowedly given up.”

1873年9月20日付で総督に送られた書簡において、不干渉政策は公然と放棄された。

そして、書簡には、より具体的な指示が続きます。

“I have to request that you will carefully ascertain, as far as you are able, the actual condition of affairs in each State and that you will report to me whether there are in your opinion any steps which can properly be taken by the Colonial Government to promote the restoration of peace and order and to secure protection to trade and commerce with the native territories. I should wish you, especially, to consider whether it would be advisable to appoint a British officer to reside in any of the States. Such an appointment could, of course, only be made with the full consent of the native Government, and the expenses connected with it would have to be defrayed by the Government of the Straits Settlements.”

各州の現状について、可能な限り慎重に確認し、平和と秩序の回復を促進し、現地領土との貿易および通商を保護するために植民地政府が適切に講じ得る措置があるか否かについて、本国に報告されたく存じます。特に、いずれかの州に英国人官吏を駐在させることが賢明であるか否かについてご検討いただきたく思います。かかる任命は、もちろん、現地(各州の)行政府の全面的な同意を得て初めて可能となり、これに関連する費用は海峡植民地政府が負担するものといたします。

クラーク総督は、同年11月のシンガポール着任前に、この英国政府の指示を本国できっちりとインプットされていたことがスウェッテンハムの回顧録に記載されています。植民地政府の行政介入は、現地の行政府の「合意」が前提でなければ進めてはならないというのが、大英帝国の指針だったということです。

双方の合意が全ての出発点だったのです。

右側の交渉の場面に年号である 1874 の数字が打ち込まれている。

マレーシアの国立博物館(Museum Negara)の外壁に埋め込まれたパンコール条約のレリーフ。 出典:Flickr、投稿者 Slices of Light、License : Some Rights Reserved, October 2022

さて、クラーク総督がペラ州の関係者と交渉してまとめたパンコール条約の最も重要な条項は次の2つと言われています。

Clause VI. “That the Sultan receive and provide a suitable residence for a British Officer, to be called Resident, who shall be accredited to his Court, and whose advice must be asked and acted upon in all questions other than those touching Malay religion and custom.”

第6条 「スルタンは、その宮廷に信任されるべき『レジデント(参事官)』と称される英国人官吏を受け入れ、彼に適切な住居を提供しなければならない。マレー人の宗教および慣習に関わる事項を除くすべての問題において、レジデントの助言が求められ、執行されなければならない。」

Clause X. “That the collection and control of all revenues and the general administration of the Country be regulated under the advice of these Residents.”

第10条 「すべての歳入の徴収および管理、ならびに当該国の一般行政は、これらの理事官の助言のもとに行政管理されなければならない。」

出典:Page 177, British Malaya, by Frank Swettenham Author Sir Frank Swettenham, John Lane Company, 1906

結論から言えば、第6条に定めたレジデントの権限と、レジデントによる助言の効力に関わる条文には矛盾がありました。これは英国政府ではなく、筆者の見立てです。

矛盾というのは、つまりここでいう「全ての問題」、つまり行政の諸問題、というのは、結局のところ全てが「マレー人の宗教および慣習に関わる事項」に他ならないという矛盾です。

宗教だけでなく、奴隷制度や税の徴収ルールは全てマレー人の慣習に関わるものです。英国側は、奴隷制度そのものは非道徳であり慣習の範囲になど入らないと判断していたのでしょうが、当時のマラヤ側の解釈では奴隷制はマラヤの慣習のど真ん中だったのです。

「すべての歳入の徴収および管理、ならびに当該国の一般行政」がマレーの宗教と慣習とは無関係だと誰が判断したのでしょうか?そのことについては、全く文献が残っておらず、英国関係者の理解では、全てはマレーの宗教でも慣習でもないというものだったようです。

これがパンコール条約の最大の問題点だったのです。(筆者の見解であり、学術的な論文や有識者の発言に基づくものではありません。解釈は自由です)

次回は、マレー側の首長達の見解を探ります。

最後までご覧いただきありがとうございました。

タイトルとURLをコピーしました